【東日本大震災復興支援活動報告サイト】


【復興支援のはじまり】

2011年3月11日金曜日14時46分震災発生。土日を挟んで翌週月曜日の3月14日、社内緊急会議を召集し被災現地への炊き出し計画を発表。食材の確保、東北まで行ける(程度の良い)冷凍車輌の確保、軽油の確保、発電機の確保、などを各部署に指示。計画停電と物流混乱の中、食材の入荷と車輌の整備をじりじりと待ち続けていた2週間後の3月27日、NPO法人JHP中込祥高事務局長より「武文さん大きい鍋ありませんか」と電話が入る。何してるのと聞くと「今、南三陸町に入ってます」との事。私の家では味噌を作っているので300人くらいのほうとうなら作れる鍋が二つあるのでもう一つを至急作って、どうせ行くのなら「作りに行く」ことを約束。これによって行き先が決まる。翌28日より本格的な準備を開始。食数は3000食分の水と食材を準備。震災発生より3週間後の4月1日午後、有志社員2名と共に現地に向け出発した。



(2011年4月1日撮影)

今回、なるべく多くの方に熱いほうとうを食べてもらいたいと思い、3000食のほうとうを用意した。すべて提供できない場合には、車を現地においてきてその後のボランティアに託そうと考えていた。また現地ボランティアの人たちには車一台あるだけでも助かるのではないかと、帰りの乗用車を用意し、2台で出発。

(2011年4月1日撮影)

積み込んだもの(ほうとう3000食分)
・ほうとう
・冷凍かぼちゃ
・冷凍さといも
・冷凍油揚げ
・はくさい
・にんじん
・長ネギ
・乾燥しいたけ
・大根
・豚肉
・煮干
・水1.1トン
・スチどんぶり、割り箸
・根付きネギ
・大なべ、かまど(300人用)×3
・調理器具
・ガソリン、軽油
・自分たちが食べるもの
・寝袋、毛布
・発電機
・ガスコンロ

第1次隊日程

[4月1日]
14時 会社出発/17時 埼玉蓮田PAにてJHP中込事務局長打ち合わせ/22時 福島県安達太良PA(369k)インフォメーションにて、先の燃料状況を確認する。燃料補給/23時 宮城県菅生PAにて仮眠(車中泊)

[4月2日]
8時 菅生(すごう)PA出発/8時半 長者原SA燃料補給/9:53 築館ICで降りる(538k)/10:25 ベイサイドアリーナ着。仮設役場等(586k)/12:22 歌津・平成の森・社会福祉協議会倉庫をベースキャンプとして使用/16:00 平成の森避難所・300人にほうとう提供

[4月3日]
6時 野菜の仕込み開始/8時 JHPメンバー4名合流/12時 泊浜(とまりはま)避難所・600人にほうとう提供/16時 馬場中山避難所・200人にほうとう提供/18:30 ベースキャンプに戻る・倉庫、車中泊

[4月4日]
10時半 石浜避難所・200人にほうとう提供/13時 ベースキャンプにもどり撤収作業/14時 各避難所に残ったほうとう配る/15時 南三陸町出発/23時 甲府に戻る。

高速のPAはほぼガソリンも足りていたようだ。お店は5時で店じまいをするところもあった。意外と、店は混雑して物も豊富に感じた。この山の向こうには、電気も食べるもののなく暮らしている人たちが大勢いることを感じると、なんか不思議な気持ちだ。少し車を走らせれば物があふれているなんて、なんだかおかしな国だ。翌日の段取りや疲労を考え、宮城県内の高速PAにて仮眠するが、寒くて寝られない。

3月31日までは救援物資の高速道路代は無料のようだった。国を挙げての復興であれば、もうしばらく続けても良いのではないだろうか?と思った。

高速を降りたところの新幹線

南三陸町へ行くには398号線を勧められた。かなり道路は復旧したようだが、ところにより通行止め箇所が多い。高速を降りてから道は混雑もなくスムーズだ。

だんだん人影も少なくなり、緊張し始める。すれ違う民家を覆うブルーシートを見ると震災の大きさを感じる。まだまだ海岸線には遠いところだが、このあたりにも津波の影響を感じ、身が引き締まる思いだ。

高台の民家は津波を逃れたようだ。

道路や電気の復旧が急ピッチで進んでいることは感じるが、電気工事を見たのは4日間でここだけだった。それだけ広範囲だった事がうかがえる。

津波が屋根まで届いたサンポート

志津川病院の5階立ての建物、その3階までは津波に襲われた

ここベイサイドアリーナの体育館は、仮設役場が設置してある。大型の避難場所であり遺体安置場所でもある。

ベイサイドアリーナにはヘリポートがあり遺体が運び込まれている

京都からも来ていた。

安置所の案内・火葬の相談

身元不明者の一覧

支援物資は全国から昼夜届く。仕分けのボランティアの数が少ないように感じたが。

隣接のボランティアセンターを訪問。社会福祉協議会担当の猪俣課長を紹介していただき、平成の森近くの社会福祉施設の使用の許可を得る。町の職員240名のうち36名が死亡、その他多数が行方不明。ここは、全国から支援に来るボランティアをコントロールするのだろう。まだまだ、大勢のボランティアを受け入れるのにはしばらく時間がかかりそうだ。ボランティアのための支援はない、自己完結でお願いしたい。猪俣課長の奥様は未だ行方不明だが「頑張らなくては妻に怒られます」と語り、ボランティア指揮に奮闘していた。

山を登っていますが、こんなところまで津波が来たかと思う。前を行くバイクの木村さん(JHP職員)今回、大変お世話になった。「黄色いドカヘル」で大田区のナンバープレートのバイクに乗ってる。なんか、似合っている。頼もしい。

川のかなり上流。

かなり上流なのにビルの上まで津波が来ていた。

水はドラム缶4本とポリタンク10本を用意。

到着後、食材を一時的に保管するために、どこかにテントを張らして欲しいと依頼すると木村さんが許可を取ってくれた。われわれは野宿するつもりだったが、私もずうずうしくここで寝かしてくれることをお願いすると、快く許可をしてくれた。ここで我々のベースキャンプができ、ここを拠点にすることが出来た。強風吹き荒れるなか、ここは天国と感じた。

大型の釜 3個用意した。一つで300人は作れる。

このまま会社のトラックを置いてくるつもりだったので軽油は多めに準備したのだが、運転する人がいないので結局乗って帰ってきました。

我々のベースキャンプの隣は、熊本からの戦車部隊でした。多めに作ったほうとうのおすそ分けをした。

4月2日 平成の森避難所。4時から300食。作業は左のテントの中で行う。

「寒いのでテントの中でやったら」とのお言葉でしたが、テントの中ではいぶって目があけられなかった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃ、ひざは炎で熱く、手にこぼしたほうとうも熱かった。でも、みなさんのおいしいの言葉に救われた。

火力が強すぎたので、少し焦げた。ほうとうを知っている人は少なかったが、おいしいと評判だった。

おばちゃんが差し入れしてくれた配給のおにぎりの、まずいことまずいこと。今までに、あんな「まずい」おにぎりを食べた事がない。ぼろぼろで冷め切っていて味がなくて・・・・震災後3週間近く経つのに、このまずいおにぎり2個。おにぎりを見るたびにこの「まずいおにぎり」を思い出すだろう。多くの事を教えてくれたおにぎりであった。




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